一刀流の詳細説明

一刀流名の意義   (『兵法一刀流」高野弘正著より抜粋)

 

一刀流の伝書の中に、 「そもそも當流刀術を一刀流と名付けたる所以のものは、元祖伊藤一刀 斎なるを以ての故に一刀流と云ふにあらず、一刀流と名付けたるに は、其気味あり、萬物大極の一より始り、一刀より萬化して一刀に 治まり、又一刀に起るの理あり、又曰く、一刀流は活刀を流すの字 義あり、流すはすたるの意味なり、當流すたることを要とす、すた ると云ふは一刀に起り一刀にすたることなり、云々」 と出ている。元祖の名前が一刀斎であり、その一刀斎が開祖の剣 法であるから「一刀流」と名付けたのではなく、これにはもっと深 遠な、即ち天地の気味に乗っ取りて創設されたところに一刀流と名 乗る大きな意味があるのだと、伝書は主張しているのである。

 

一刀流は元祖の名が一刀斎であるから一刀 流と言うのではなく、一に始り十に終り、また十から一に返って再 び一から始るという、この天地の理法、即ち循環の原理を一刀流で は「天地の気味」と言い、この気味については緩々述べたところで あるが、とても筆には尽くせぬところである。 次に一刀流の「流」について述べれば、一刀流に限らず、剣法に は新陰流、二天一流などというように、己れの剣法に、何流、何流 とつけているのは周知の通りであるが、この「流」というのは、そ の「流祖の特徴」を弟子がなぞり学ぶことをいうのである。

一刀流について言えば、その精神は、天地の循環の理を以て一心 を一刀にかえ、また一身を一刀にかえ、一心一刀を以て本来無一物、 即ち己れを無にして敵に立向うということで、一刀流の流とは、 その流祖の心技或いは神技の脈を言うのである。 一刀流が天地の理法、即ち儒教の自然循環論を根底におく一つの 端的な例を挙げれば、一刀流の伝書の一番最初にある『一刀流兵法 十二箇篠目録』は、十二箇條とある如く、一刀に始り万化してまた 一刀に還る義を一年、十二ヵ月の自然の移り変りに託し、『一刀流 兵法十二箇篠目録』として、それに価する修行を積み、徳を磨いた 弟子に、師より授与するものである。 流祖伊藤一刀斎より今日まで、そしてまた次の世代へと、綿々尽 くることなく一刀流の流れは継続され、また永遠に流れて行くこと であろう。 まさに孔子の 「天行健なり」 である。

 

著者もまた、かくあらねばならぬと念願するものである。

一刀流中西派の生い立ち     (『兵法一刀流」高野弘正著より抜粋)

一刀流中西派は、初代中西忠太子定が小野次郎衛門忠一の門より 出でて下谷練堀小路に道場を開き、盛んに一刀流を流布したのが始 りである。 子定は忠一門下にあって傑出した人物で、武芸の誉れ極めて高 く、またその道場も間口六間、奥行十二間の豪壮な構であった。中 西道場は、将軍家指南の一刀流を広く一般の人々に教授するという ことで、当時の江戸剣道界に大きな話題を呼び起した。 後に剣術稽古の主流となる竹刀稽古を創始するのは二代忠蔵子武 であって、子定の頃は、まだ一刀流の稽古法は古来よりの形稽古の みによって行われていた。一刀流は、真剣、刃引、木刀を用い、身 を捨てて打込む心を組太刀の技を通して練磨するのであるが、試合に於ては勿論のこと、稽古の上でも一瞬でも気を抜けばケガをするのは当り前、ともすると命をも失いかねぬ稽古法は、時代を経る に従い真剣勝負の機会の少なくなった当時の武士達の手によって、 次第にただ約束事のみを行う、形式だけのものになっていく。その 結果真剣の理合を失った形稽古は、身を捨てて立合うことも少なく なり、流儀の意味も忘れ去られ、形式のみを器用に行う華法剣術に なっていくのである。 二代忠蔵子武は、この風潮を正す為に、以前よりあった面、籠手 に更に工夫をこらし、それに竹具足という竹胴と、五枚のしころを組合せた垂れを加え、木刀に替えて、子血宗竹を割ってその先と柄を 鹿皮で包み、弦を張り、厚い牛皮を鍋代わりにした現代の竹刀とほ ぼ変らぬものを考案して、いつどこの部位に襲い掛ってくるか解ら ぬ、自在の攻防の技の鍛錬に理のある、今日の竹刀剣道の基礎とな る稽古法を編み出したのである。

 

 

一刀流中西派は、二代子武の手によって創始され、子啓、子正 の手によって完成されたのである。そしてこの子啓、子正の時代 に、多くの剣客が中西の門より育っていく。 三代子啓の門からは、高崎藩の寺田五郎右衛門宗有、寺田より天 真一刀流の印可を受けた岡山藩の自井義講、音無しの勝負で有名 な高柳又四郎義正、また、四代子正の下からは、浅利又七郎義信、 子正の次男で浅利家を継いだ又七郎義明、中西の門より出でて北辰 一刀流を創始した千葉周作成政、そして著者の曽祖父・高野佐吉郎苗正もその一人である。


大分と一刀流中西派

 歴史を紐解くと、実は一刀流中西派は大分県中津藩の中西家が師範役として本家となっています。ここから分家した中西家が江戸表で道場を開き、胴垂れの防具とそれを使った竹刀剣道稽古法を、何事も工夫あるのみという家訓をもとに発明し、従来、侍しか許可されていなかった剣術を幅広く町人農民にまで門戸を開き、一刀流中西派は爆発的に広まったという歴史を持ちます。

 その中西本家を大分中津に持ち、昭和の時代に一刀流中西派の極意書も中津で発見されたという事実もあります。

 ただ、現在一刀流の主流は警視庁に宗家を持つ小野派で、大分では元警視庁の阿部傳七先生が杵築市で教えられているだけで、中西派は現時点で当館だけです。 

 中西派の稽古は、現在神奈川県鎌倉市の稲村ケ崎の高野宗家が中心となりその道統をつないでおります。 そこに入門し一刀流中西派を稽古でき、さらに故郷大分の本家の地で中西派を修行できるというご縁を活かしこの一刀流中西派という古流を学ぶことで、戦後失われてきた日本の素晴らしさを取り戻し真の日本人になれるような修行を行ってまいりたいと思います。

 そして、いつか大分の地から一刀流中西派の剣士が国内外に飛びだっていくことを夢に見てこれから日々精進してまいりたいと思います。